シリア映画「それでも僕は帰る シリア 若者たちが求め続けたふるさと」を観てきた。
ここ一週間観ていたのがクリス・マルケルのひねったドキュメンタリーだったせいか、こちらはまともな、というか、まっとうな、というか、本来のドキュメンタリーだったので、かえって戸惑った。
シリア内戦の中の若者たち、予想以上に暗澹たる気持ちに。元ユース代表GKが反アサドの武装闘争の闘士となり、延々と市街戦。最初は歌で平和を訴えていたというのだが。ひたすら殉教を唱え、原理主義ばりの危うさを見せる。虚無感募る。
サッカーボールを銃に持ち替えた青年。非暴力を貫きカメラで記録し続けた青年。作品中でこの二人をきちんと描き切れたとは思えず。
サッカーシーンは冒頭ちょこっとだけ、しかもナイスセーヴィングシーンじゃなくて可愛そう。イゴリョーク・アキンフェーエフかソスラン・ジャナエフばりに「やらかした」シーンの映像しかない。
彼の歌うレジスタンスソングは、はっきり言って全然上手くなかった。
アラビア語講座で聞いたアラビックポップス、これまで映画などで見聞きしたパレスティナのピップポップなど、あのあたりの音楽と詩には常に心を揺すぶられてきたものなのに、彼、バセットの歌にはアラビア語の美しさが感じられず、単なるシュプレヒコールみたいな歌詞で、サッカーシーンの肩すかし以上にがっかり。
これでシリアの若者が引きつけられるとは信じがたかったけれど、彼にはカリスマ性があるといい(私には全く効かないのだが…)、平和を訴える歌手として反アサドの人たちに人気を博したのだという。
が、平和的なデモンストレーションはアサド側の攻撃で蹴散らされ、挫折し、バセットたちは武器を手にする。
一方、バセットの友人オサマは重傷を負って入院していたところ、戻ってみると皆銃を持って戦うようになっていて、一人入り込めない雰囲気になっている。
この所在なさが痛々しい、とても。
彼はまだ非暴力での反アサド民主化運動を諦めておらず、アサド政権による市民抑圧(というよりもはや虐殺といってよい)の実態を撮影し、インターネットにアップして、世界の皆の知るところとなれば、世界はアサドを許さないだろう、この非道、不正義に、世の人々が黙っているわけはないだろうと信じている。
このシリア内戦に限らず、パレスティナにしても、チェチェンにしても、あるいは旧ユーゴスラヴィア紛争などでも、「世界の皆はこの現況を知らされていない。映像を発信して、皆に知ってもらえれば、現況の悲惨さが伝わり、自分たちが闘う正当性がわかってもらえ、協力してもらえる」と考えるのだろう。それが伝わらない、となれば、失望感たるやいかほどのものか、と案じる。
武器を取り一線を超えると、非暴力の世界に帰ってくることはとても難しいだろう。
反アサドの思想的拠り所がイスラーム原理主義にすぐ結びついてしまうのに、何故?と思う暇もなく、突然殉教だとか言い出すのが不気味だ。
民主化を求めてアサド政権に抵抗したはずのバセットであったが、彼らが手にする武器はいったいどこから供給されるのだろうか?と思いつつ観ていたところ、ある映画評によれば、彼はその後「イスラム国」に忠誠を誓い、ヌスラ戦線に参加しているという。(民主化とかふるさとを守るというのはどうなったのだろうか?彼なりに思想の整合性はあるのだろうか?)
このドキュメンタリー中では、時に「疲れた」と弱音を吐き、アサド政権打倒のためにNATOがシリア攻撃をして欲しいみたいなことを口走る。その後、どういう経緯があったのか、(というより「やはり」という印象だが)ファンダメンタルへの道を辿るという…。
「それでも僕は帰る シリア 若者たちが求め続けたふるさと」