大雪の中、横浜まで観に行ったポーランドのドキュメンタリー"Mundial. Gra o wszystko"
直訳すると「ワールドカップ 全試合」となる。
このMundialというスペイン語から借用された単語のようだが、仮にロシア語のМундиальと同じであれば1982年スペイン大会以降に使われるようになった、というより、1982年スペイン大会そのものを指すといってもよさそう。
少なくともこの映画の内容は、1982年スペイン大会におけるポーランド代表の全試合のレポートであり、加えて時節柄というか、当時自主管理労働組合「連帯」で盛り上がるポーランド国内の世相をもレトロスペクティヴしました、というもの。
ヨコハマ・フットボール映画祭での邦題は「クレムリンに立ち向かった男たち ポーランド代表 ベスト4の真実」となっていて、“まーたソ連(ロシア)が悪役?”と世のロシア好きの皆さんにとってはうんざりな様相を感じさせるけれど、実際にはそんなに«反ソ決死隊»な映画ではなく、ソ連もポーランドの対戦国の一つとして登場するにすぎないので安心してご覧くださいませ。
で、真面目なドキュメンタリーではあるのだけれど(目新しいところではETVで使っているようなへヘタウマなアニメーションが添えられている、効果的なのかどうか微妙)、ポーランド国民には自明のことでも、数十年後の外国人たる日本人が鑑賞すると、基礎知識不足が露呈してきてしまうので、相当想像力を駆使しないといけないのが辛いところ。
基礎知識1:当時のポーランドサッカーは強かった!
基礎知識2:自主管理労働組合「連帯」誕生は世界的に注目されていた!
基礎知識3:当時、ポーランドとソ連はワルシャワ条約機構で結ばれていたけれど、ソ連は常に兄貴面をし、ポーランド人の多くは反感を持っていた。
基礎知識4:当時のローマ教皇はポーランド人であった。
基礎知識1でいえば、試合映像を観るとほんとに素晴らしい。
快足Grzegorz Lato ラト、悪童だったらしいZbigniew Boniekボニエク、そしてスモラレク・パパ。
スモラレク、大活躍である。膠着した試合の突破口となる先制点、コーナー近くでの驚異のボールキープ、溜息ものである。
(エンド・クレジットでスモラレク・パパだけ四角囲みになっていた。故人になっているのは彼だけなのか?何とも惜しまれる早逝だった。制作当時には存命だったので、貴重な彼のインタビューもあり。)
基礎知識2の自主管理労働組合「連帯」絡みで言えば、ポーランドでは言わずもがななのかもしれないが、もはや歴史となってしまった事項について説明抜きにはわかりにくい点も出てくる。
最初に処分されそうになったGK、スター選手ボニエクが「彼を使わないなら我々選手たちも出ない」と言い張ったおかげでことなきをえた(2010年ワールドカップ予選最終盤のドイツ戦を前にして、ゼニットサポーターともめたブィストロフ及び彼を支援したロシア代表のことを思い出した)のだが、そもそも何故このGKは一時所在不明になっていたのだ?
ここに政治的理由でもあるのか?は、遂に説明されなかった。
選手たちは(当然ながら)ことさらに政治的な行動をしているわけではない。
むしろそういう観られ方を外からされるのを意識的に避けていたと言えよう。
いわゆるポーランド気質として悲劇のヒーローになりたがる、みたいなところはやはりあったが、一方ボニエクは「ソ連選手だって大変でしょ」と慮ってもいた。
(実際大変だったと思われる。このときポーランド代表が対戦したソ連代表にはバロンドールを獲得したオレグ・ブロヒンがいた。)
また、「連帯」はといえば、ワールドカップ開催時に獄中にあった人たちはTV観戦の要求をする(まあそれは権利として要求するのは、南アなんかでも出てくるエピソードだ)が、特にサッカーファンでもない人は全く熱心ではなく、むしろそんなことで当局にまるめこまれたくないという立場だし、本音は隣で観戦されるのも嫌という人もいるので、「ワールドカップを観ないで済む権利」まできちんと保障していたら完璧だったと思うが。
レトロなロック調の曲が数曲使用されていて、予選・本戦でそれぞれ応援歌が作られていたこと、恐らくはポーランドのファンたちによって口ずさまれていたのだろうことが伺われて、改めて、このときのポーランドは世界的強豪であったことに思いをはせる。
フットボール映画祭でよりも、ポーランド映画祭で観たい映画だった。(←ワイダの旧作上映はもういいから、お願いしますよ、実行委員会の方々!!)
"Mundial. Gra o wszystko"
(公式サイト)